近江ゆかりの戦国武将ー家紋入り乗車券ー蒲生氏郷

■蒲生氏郷の生い立ち

名門藤原秀郷を祖とする近江蒲生郡日野六角氏重臣蒲生賢秀の嫡男として生まれる。幼名は鶴千代。永禄11年(1568)織田信長の人質となるも、信長はその才能を見抜き、娘の冬姫と結婚させる。


天正10年(1582)本能寺の変で信長が横死した際安土城留守役の父、賢秀とともに信長の妻子を日野城に保護し、明智光秀に対抗。


家紋 家紋分類 蒲生氏郷



その後、羽柴秀吉に仕え、伊勢松ケ島12万石を与えられるが、天正16年(1588)伊勢松坂城を新しく築城。秀吉の奥州仕置後、陸奥会津42万石に移封。町の名を「黒川」から「若松」に改名。


七層の天守は幼名にちなみ「鶴ケ城」と名づけた。
氏郷の移封に伴い、日野商人も松阪・会津若松と移り、城下町の発展に寄与した。


利休七哲の一人、風流の利発人と評され、会津から文禄の役に参陣途上、近江国武佐で故郷日野を偲んで詠んだ「思ひきや人の行方ぞ定めなき我が故郷をよそに見んとは」が有名。



文武両道に秀でた氏郷は36歳の若さで会津の領主となり、仙台の伊達政宗や山形の最上義光などを抑える要(かなめ)の役割を果たしましたが、文禄4年(1595)2月7日、40歳の若さでこの世を去りました。



【辞世の句】

限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風
(風など吹かなくても、花の一生には限りがあるので、いつかは散ってしまうのです。それを春の山風は何故こんなに短気に花を散らしてしまうのですか)
まだまだ武将として働いていける。その矢先の死に悔いの残る辞世である。
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