近江ゆかりの戦国武将ー藤堂高虎

「藤堂高虎」(とうどう・たかとら 1556 〜 1630) とは?
「常に死を覚悟していれば、心は動じない」
と各地で戦功を挙げ、内政・知略にも定評のある戦国時代の外様大名でありながら徳川十七将に数えられる1人。



近江国藤堂村の土豪・藤堂虎高の次男に生まれる。
近江国の大名・浅井長政に仕えた藤堂高虎は、姉川の戦いで初陣を飾り、戦功を挙げて浅井長政より感状を与えられる。
しかし当時はまだ巨大な体をもてあましていたのか、同僚を諍いの果てに殺してしまった為に出奔し、元浅井家臣の阿閉貞征に仕えたが一ヶ月程で出奔。



「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」
の言葉に代表されるように主君を何度も変えていることから、不義理者とされて不当に評価を落とされていることが多い。しかし実際には仕えた主君を裏切った事はなく、自分を評価してくれた者には相応の結果を出そうと滅私奉公の如く働いた。知勇兼備の将であり、戦国時代の三大築城名人の一人に数えられる一級建築士でもある。
藤堂高虎が造営を担当した徳川家康の廟・日光東照宮には、徳川家康の像の隣に南光坊天海と共に藤堂高虎の像が並べられている。

家紋 家紋一覧 藤堂高虎




「藤堂高虎」を紹介した切符に印刷されているのは「蔦」もんですが、蔦紋の由来等は・・

平安時代から貴族の衣服の文様に使われたことが『源氏物語』や『枕草子』『栄華物語』などの文様によく出てくるのもその美しさが愛好されたためだろう。
しかし、ふしぎなことに、これを家紋にした公家は見当たらない。



家紋としいては室町時代のお「見聞諸家紋」に椎名、富田、高安の三氏が出ているのが初見のようだが、それ以前から使用されていただろうことは容易に想像できる。



江戸時代の蔦紋使用大名としては藤堂、松平、六郷の三氏が著明だが、旗本では百六十氏にのぼる。
松平諸氏は徳川の一門に連なるので初めは葵紋を使用していたが、後の将軍家に遠慮して蔦紋に替えている。


江戸時代には、上は将軍から下は花柳界の女性にいたるまでに大いに愛好された。
八代将軍徳川吉宗は将軍家としての自分の血筋が途絶えるのを心配して一橋、田安、清水の御三卿を立て、徳川家の本紋の葵の替え紋として蔦紋を用いた。
これなど蔦の生命力の強さにあやかり、子孫の繁栄を願ったものに違いない。

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