歌舞伎の紋争い 



役者の紋は、いわば登録商標のようなものだったから、気に入ったからといって他の役者の紋を勝手に使うわけにはいかなかった。

本家から分家する一門の場合でも、宗家に遠慮してデフォルメするのが普通だった。

たとえば市川左団次は市川家の「三舛(三枡ーみます)」の中に「左」の字を入れ自分専用の紋を作った。

中村福助は先代の「三つ対脹ら雀(みつむかいふくらすずめ)」のでデザインはそのままだが、白黒を逆にした陰紋にしている。

役者はこうした紋を自分のシンボルとして、衣装はもちろん用具、引き幕、暖簾、風呂敷、提灯にいたるまで散らして宣伝効果を上げていたのだ。

こういう厳しいしきたりの中で、紋争いも起った。

市川団蔵は初代市川団十郎に可愛がられ、紋も市川家の「三舛」を使っていたが、二代目団十郎とは仲が良くなかった。

正徳五年(1715)十一月に団蔵が森田屋で「早咲女島原」の荒獅子男之助を演じたとき、二代目団十郎とついに喧嘩別れとなった。

そのとき二代目が、「以後、市川家の「三舛」の紋の使用はまかりならぬ」と申し渡すと、頭にきた団蔵は「ならばこうするわ」とばかり、「三舛」の紋に「一」の字を引いたという。

その後、間に立つ人がいて、二人は十六年後の亨保十六年(1731)にようやく和解し、団蔵はまた「三舛」を用いるようになったが、枡の形は正方形にしないで、縦長の三舛にしている。

同じ紋は使わないと意地を張ったのか、遠慮したのかは分からない。
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