初の家紋事典「見聞諸家紋」
鎌倉時代の初期に始まった武家の家紋はしだいに家格を示すものとして重要視されるようになっていった。
その一部は「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」などに描かれているものの、多くは「太平記」に「左巴・右巴・月に星・片引き両・傍折敷(かたおしき)に三文字書いたる旗ども六十余流れ」などと記されているだけで、肝心の図形は分からない。
室町時代に入って関東公方(くぼう)の足利持氏が長倉義成を討ったさまを記した「羽継原(はつぎはら)合戦記」も従軍諸将の家紋が二百数十も列記されているが、図形は出ていない。
そこで登場したのが、「見聞諸家紋(けんもんしょかもん)」だった。
これは室町幕府八代将軍義政のころの将軍家、守護大名、評定衆、奉行衆、奉公衆、守護被官、国人層などの家紋二百六十一を描き、解説したものである。
これは正確な成立年代や編集者は不明だ。
実形から使用家まで記載されているから、史料的な価値がきわめて高い。
その後に上杉謙信が関東諸将二百五十一家の紋を収録した「関東幕注文(かんとうまくちゅうもん)」や三好長慶が支配下の阿波諸家の紋を集めた「阿波国旗元幕紋控(あわのくにはたもとまくもんひかえ)」などもある。
江戸時代になると幕府は三百諸候や旗本に自家の系譜を提出させ「寛永諸家系譜伝」を編集した。
それを後に改訂増補したのが、「寛政重修諸家譜(かんせいちゅうしゅうしょかふ)」である。
これは二千百三十三家の系譜と家紋を収録したものである。
このほか民間では大名と旗本の紳士録ともいうべき「武鑑(ぶかん)」が刊行されていた。
家譜は時代によって変遷してゆくわけだから「武鑑」も江戸時代を通じて次々と改訂版がだされている。

