★ とんだ紋ちがいの刃傷


★ とんだ紋ちがいの刃傷

延享四年(1747)八月15日、月例の拝賀式に諸大名が江戸城に総登城したときのこと

である。

肥後(ひご)熊本藩主の細川越中守宗孝が大広間の厠(かわや)に行くと、突然、板倉修理

勝該に背後から斬り付けられた。

加害者の板倉修理は厠の中に隠れていたが、ほどなく捕らえられて切腹を命ぜられた。

一方、深手を負った宗孝は翌日死去した。

修理が刃傷に及んだ理由は、修理には日頃から狂気の振る舞いがあったので、本家の板倉佐

渡守勝清の計らいで廃嫡す驍アとにした。

それを恨んだ修理は殺そうとうかがっていて、誤って細川宗孝を殺してしまったのだった。

それというのも、板倉家の家紋は巴(ともえ)を九つ描いた「板倉九曜(いたくらくよ

う)」で細川家の「九曜紋」とよく似ている。

そこで誤って宗孝に斬り付けたのだった。


この事件は江戸っ子の間でも大評判になりさっそくに川柳に


九つの星が十五の月に消え 剣先が九曜にあたる十五日


などと詠まれている。


殺された細川家では当主を失って大騒ぎとなった。

そしてまた間違えられてはたまらぬとばかり、家紋をそれまでの「寄り九曜」から「はなれ

九曜」に改めた。

「寄り九曜」とは中央の円に周囲の八つの小円がぴったりついて囲んでいるんもので、「は

なれ九曜」は中央の大円から小円がはなれているものだ。

しかし、この事件があってから、民間では九曜紋は「苦労紋」とか「苦悩紋」などと呼ばれ

嫌われ、使用するのを敬遠されるようになったという。


* コラムは監修者:丹羽基二氏 発行所:実業之日本社 「家紋 知れば知るほど」
を参考にさせていただきました。



sn_itmfv_l at 09:44│Comments(0)TrackBack(2)clip!戦国時代 | 武将

トラックバックURL

この記事へのトラックバック

1. ちび苺  [ ちいさいもん!! ]   2005年12月10日 09:54
149センチの私日記
2. ★greens★  [ 日記★ ]   2005年12月10日 09:57
読ませてもらいましたァδ

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔